天職だった教員の仕事。けれど世の中のことを何も知らないと気づいた
—もともとは教員として専門学校に勤務していらっしゃったのですね。
両親が教員だった影響を受け、気がつけば自然と教員の道を目指していました。新卒で就職したのは保育士や幼稚園教諭を養成する専門学校。そこで教員として勤務する傍ら、広報責任者も務めました。教員の仕事はやりがいがあり「これは天職だ」と思ってはたらいていたのですが、あるとき生徒に「一般企業に就職したい」と言われたことで頭が真っ白になってしまって。ほとんどの卒業生が保育園か幼稚園に就職するため、一般企業にどんな業種や職種があり、学校以外の社会がどのように成り立っているのか知らなかったんです。
—それが転機になり、キャリアチェンジを決意されたと。
先生が生徒に与える影響は想像以上に大きいものです。だからこそ、私自身が世の中のことをもっとよく知ることが必要だと考えるようになりました。そこでまずはベンチャー企業に転職。幸いにも広報責任者として生徒数を5年で10倍にした実績があったのでなんとか転職先を見つけることができました。外の世界は良くも悪くもやっぱり思っていた世界と異なり、ベンチャーの世界は刺激が多く学ぶことが多くありました。けれど何から何まで自分たちで作り出す必要があり、私がいますべきことは広報職を極めることだと考えて飲食店や美容室の情報サイトなどを運営している大手企業へ転職しました。
社会でぶつかる課題は簡単に答えが出ない
—新しい会社では気づきがありましたか。
入社前からありました。面接のとき「あなたのことは評価するけれど、あなたがどう生きたいかをもう少し描ききるといいよ。あなたの人生にこの会社が役に立つなら一緒にはたらきたい」と言われたんです。そのときに本当にはっとして。それまで私は会社と個人には上下関係があって、雇っている会社が偉いんだと思っていました。でも違った。会社と個人は対等でいいんだと。そこに最初の気づきがあって新しいキャリアがスタートしました。
新しい会社ではBtoBサービスの社外広報をしていました。広報の仕事ってはたらく仲間が心から笑えていることが一番大事なんです。自分の会社やサービスに惚れ込んでると広報は加速します。そういった広報の役割を理解していたので、広報のキャリアを積み上げ、堪能していきたいと思いました。
—充実した会社員時代、入社半年後には任意団体「先生の学校」を立ち上げられますね。
民間企業ではたらいたことで改めて、教育現場で身につくスキルと社会で求められるスキルが乖離していることに気付きました。学校のテストにはすべて答えがあるけど、社会でぶつかる課題はそうじゃない。みんなで知恵を出し合って解決の道を探ることが大事であったりします。この差を埋めるためにも、教師たちが実社会を感じる場所が必要。その機会をつくるために先生が先生以外の方と学校では学べないことを学ぶことができる学び場を主催する任意団体「先生の学校」を立ち上げました。
—「先生の学校」の運営は順調でしたか?
いえいえ全然。500人収容できるイベント会場に160人しか集まらなかったり、クラウドファンディングに失敗したり、講演内容が先生方のニーズと合っておらず、アンケートでご指摘をいただいたりとたくさんの失敗をしました。けれど先生たちのニーズに寄り添って新しい視点を届ける活動を続けた結果、少しずつ参加者が増えていきました。
心の声を聞き、本当にやりたいことに全集中
—パラレルワーカーとして順調にはたらき、出版も経験。けれどその後、その会社も退職されました。
前職は最高の会社でした。仲間にも恵まれましたし、仕事は楽しかった。けれど誰かの造った船のうえでは心から自分の人生を生きていると、言えなくなっている自分に気がつきました。心の声に従えば、いま自分が一番やりたいことは次世代の子どもたちに誇れる社会づくりなのだと。そこで最初の一歩として「先生の学校」を事業化するために会社を辞めることにしたんです。
人生においては、パラレルキャリアのようにやることを広げる時期と、一つのことに専念する時期、両方があるといいと思うんです。人生という1本道のなかで、複業と専業が入り乱れているような。両方のフェーズがあるからこそ、人生が豊かになると思うんです。
—新しいキャリアへ進むタイミングはどのように見極めたのですか?
会社員としてはたらきながら、私はいつも「会社に頼らずとも生きていけるようにしたい」と考えていました。だからそのために会社の肩書がなくても社会から必要とされるようスキルアップを意識してきました。でもいきなり独立して本当にやっていけるのかはわからなかった。だからまずパラレルキャリアで挑戦してみて、「これはいける」と思ったタイミングで新しいキャリアへ進むことにしました。
順調だったパラレルキャリアにも違和感を持ちはじめていました。その正体を探るべく毎朝30分ぐらいかけて「自分会議」をしていたところ、やっぱり「先生の学校」に専念すべきだという結論が見えてきた。「自分会議」とは、前日の自分を振り返って、どんな感情を持ったのか、違和感の原因はなんだったのか、なぜそう感じたのか、本当はどうしたかったのか……と自分と徹底的に会話をしていく作業です。自分が納得してはたらくためには、私は自己理解がすべてだと思います。何をしたいか、どうしたいのかはいつも自分の中に答えがあります。そして自分を知りながら社会理解も深めていく。そうすることで、自分のやりたいに適切な選択肢を並べることができるようになります。私は常に気持ちの原点を探り、よりよく生きるためにいろいろな質問を自分自身に投げかけています。
次世代が思わず笑顔になれる社会をつくりたい
―ライフステージの変化の時期も重なりましたね。
はい、年齢のこともありました。私はいま36歳なので、同じ年月をもう一度経験すると72歳になります。そろそろ、人生の折り返し地点に差し掛かっていると感じました。自分のための時間は使いきったという感覚があり、これからは誰かのために時間を使いたいと考え、このタイミングで起業をすることにしました。
広報の仕事を専門学校時代から長く続けてきたことも自信になりました。もしも事業に失敗してしまっても、広報というスキルを使ってはたらけばどうとでも食べていける。この後ろ盾は大きかったです。
—出産をされたことも新しいキャリアへの進むことを後押しされたのでは?
そうなんです。私たちがつくってきた社会はこの子たちに何を残せるのだろうかと考えました。環境問題や男女格差、そして教育上の課題。社会にはまだまだたくさんの問題があります。物質的には豊かになったけれど、経済成長の影で苦しんできた人もいる。次世代を担う子どもたちに、こんなに問題が山積みになったままの社会を渡してしまってもいいものなのかと悩み、社会をよりよくするためにはたらきたいと思いました。「受け取った人が思わず笑顔になってしまうような社会に」。社名はそんな思いを込めて「スマイルバトン」にしたんです。
「変わりたい」人の支えになりたい
―新しいステージではどのようなお仕事をされているのですか。
3年間の「先生の学校」の活動を通して、情熱を持った先生方がステレオタイプの強い組織文化の中で孤立してしまい、挑戦できない状態にあることを知り、職場ではなく第三の場所での横のつながりを持つことが大切であると気づきました。そこで「先生の学校」を教育メディアコミュニティにリモデルし、お役立ち情報を雑誌で定期的にお届けしたり、オンラインでの講座やミーティングを開催したりするほか、先生方と一緒にプロジェクトに取り組んだりできる場にしています。
今後は学校と社会をつなぐプロジェクトに取り組みたいと考えています。具体的には、先生や生徒、学校が、簡単に各分野のプロフェッショナルとつながり、相談したり授業や研修への登壇をオファーしたりできるマッチングプラットフォームを構築したいんです。
―夢はありますか?
「変わりたい」と考えるあらゆる人の支えになりたいです。ベンチャー企業を転々としたとき、ある人に「ベンチャー企業を転々としたことで、三原さんの履歴書に傷がついちゃいましたね」って言われ、それにはびっくりしてしまって。たとえバツがついてもそれで人生がだめになるわけじゃない。道はまっすぐである必要はなく、人生はいろんな方向へ曲がりくねっていてもいいはずなんです。だから、専門学校生が専門外の一般企業に入りにくいという風潮もなんとかしたい。そういう社会を変えていきたいと思いました。
―三原さんにとっての「はたらいて、笑おう。」とは?
私のはたらきを通して、目の前の人が笑顔になってくれること、そのきっかけをつくることで私も笑うことができます。自分だけが幸せになることって難しいんですよ。笑えることがあったとしても、ニュースで誰かが悲しんでいることを知ったら心から笑うことなんてできなくなる。みんなが笑える社会をつくる。それが私の「はたらいて、笑おう。」です。(文・大川 祥子 写真・北村 渉)