タレント、ナレーター・ラジオDJ、農家、防災士……幅広い肩書きで活動を続ける武藤千春さん。2014年に加入したダンス&ボーカルユニットを卒業後、2019年に長野県小諸市に拠点を移し、畑での野菜作りや販売を開始しました。2021年にはブランド「ASAMAYA」を立ち上げ、生活の中に農業を取り入れた「農ライフ」の普及や、地域の魅力を伝える活動を行っています。
今回は武藤さんに、自分らしくキャリアを選択できるようになるまでの軌跡や、ご自身が考える“はたらくWell-being”を実現するためにどのような取り組みをしているのかを伺います。
プロフィール:
武藤 千春
タレント、ナレーター・ラジオDJ、農家、防災士
2011〜2014年、ダンス&ボーカルグループのボーカルとして活動。
2015年よりユニセックスストリートブランド「BLIXZY(ブライジー)」を設立しトータルプロデュースを手がけるほか、ラジオナビゲーターやナレーター、MC、タレント、コメンテーターとしても活動。2019年から長野県小諸市に拠点を持ち、農ライフをスタート。野菜やお米、ワイン用ぶどう、南高梅などの栽培を行い、2021年には農ライフブランド「ASAMAYA」を立ち上げる。2022年小諸市農ライフアンバサダーに就任。農ライフや地域・農業の魅力を伝えながら農村での課題解決に向けた商品開発も行うなど活動の幅を広げ、「有言即行」をテーマに新しい生き方や価値観を発信している。祖父の被災経験から防災士の資格を取得し、2024年からは地域の防災意識を高める団体「あさま防災カルチャークラブ」を始動。
目次
「辞めることは悪いことではない」10代で決断した、ファーストキャリアへの区切り
――武藤さんは、自然体で自分らしいキャリアを選択している姿勢が評価されての受賞となりました。タレントにナレーター・ラジオDJ、農家、防災士とたくさんの肩書きをお持ちですね!
ありがとうございます。幼少期から大好きな音楽を通じて、常に自分のキャリアについて考え続けていたので、受賞できたことがとても嬉しいです。
10代でダンス&ボーカルグループのメンバーになり、20代を目前にして卒業し、その後はアパレルブランドの立ち上げをしたり、ラジオパーソナリティとして活動をしたりと、興味のあることにチャレンジした結果、いつの間にか肩書きが増えました(笑)。今は「正解を狭めない自分らしいキャリア選択が、はたらく幸せにつながる」という信念を持っています。

――10代でファーストキャリアに区切りを付けたのですね。年齢的にとても早いように感じます。
周りはまだ大学や専門学校に通っている学生ばかり。そんな中でファーストキャリアを終えたのは、一般的にはとても早いかもしれないですね。
「音楽と歌が大好き」という気持ちが高じてグループに所属しましたが、仕事を通じて多様な職業の方と出会って経験を積むなかで、「自らがスポットライトと歓声を浴びるよりも、自分の考えたセットリストやトークなどの演出がお客さんにうまくはまったときに喜びを感じるのかもしれない」と思うようになりました。視野が広がって、自分のやりたいことや得意なことが段々と見えてきたんですよね。
そのうち「音楽以外にも挑戦したい」という気持ちが芽生えてきました。興味があるのにチャレンジしないことをもったいないと思う性分なので、10代で一区切りをつけることにしました。
――私が10代だったら華やかなキャリアを手放すことについて、不安を感じてしまいそうですが、武藤さんはいかがでしたか?
不安はほとんど感じなかったですね。グループにいるときは与えられた環境の中で輝く方法を考えていましたが、そこから一歩外に出たときには、自分の力で生きていけるのだろうか?ということも常に考えていました。そのため、「まっさらな状態に戻ったとき、自分はどんなことに興味を持つのだろう」とワクワクしていました。高校時代からグループに所属していたため、アルバイトや就職活動の経験もなく、同世代と自分の社会経験を比較して少しだけ焦っていた気持ちもあったことを覚えています。
――すごい決断力です。
もし「失敗した」「前のほうがよかった……」と思ったら、いつでも引き返すことができると思っていることも、ファーストキャリアに区切りをつける決断ができた理由の一つかもしれません。私、「辞めること」に対して、あまりネガティブな気持ちがないんですよね。それよりも、チャレンジせずに「やってみないとわからないこと」を見逃してしまうほうがもったいないと感じてしまう性格なんです(笑)。
キャリアブレイクは怖くない。「自分への投資期間」
――グループ卒業後の20代は、どんなことを考えながらキャリアを選択しましたか。
10代は大好きな音楽や歌・ダンスに夢中になり、1つの分野を突き詰めたので、20代は関心の幅を横に広げてみることを意識しました。そのためにフットワーク軽く、興味のあることにはどんどんチャレンジしましたね。未経験でアパレルブランドの立ち上げに挑んだのも、「ファッションが好きだから」というシンプルな理由から。
私を応援してくれている人たちに「あの時、新しいことに進んでよかったね!」と思ってもらいたくて、25歳までは寝食を忘れてがむしゃらにはたらいていました。

ただ、好きなことを仕事にしているのでとても楽しかった一方、身体は限界だったんでしょうね。38度台の微熱が半年間下がらず、病気にかかってしまっていたことが分かりました。
――体が悲鳴を上げてしまったということですか。
はい。だけど私はフットワーク軽く、いろいろなことにチャレンジしたくなってしまう性分で。その性格を自分が一番理解していたから、お誘いの声などから物理的に距離を取ろうと拠点を移す計画を立てていました。そのタイミングでちょうど家族内で祖母の移住の話が持ち上がり、一緒に小諸市へ拠点を置くことにしました。
――意図的にキャリアブレイクの期間を作ったということですね。そうした期間を後ろ向きに感じる人も多いように思います。怖さなどはなかったですか?
怖いという気持ちはなかったですね。私が思うにキャリアブレイクは、「自己投資」の期間。キャリアブレイクによって時間や気持ちにゆとりを持つことで、自分と向き合うことができ、新しい関心ごとが増えるように感じています。そのため今でも、キャリアブレイクとまではいかないものの、定期的に仕事のスピードを緩める時間を作るようにしているんです。

「仕事=自分の日常を面白くするための行為」であって、私は仕事をするために生きているわけではありません。あくまでも、楽しくはたらくことが私にとっての“はたらくWell-being”。だからこそいっぱいいっぱいになる前に、“新しい風”が吹き込む余白を作ることを意識しています。
農業がもたらした“長期的視点”
――キャリアブレイクの期間を経て、現在は農業に力を入れていらっしゃいます。農業に向き合うことで、ご自身の中での変化はありましたか?
これまでは「今やりたいことを今やる!」というスタイルでしたが、農業や農ライフに携わることで未来志向になったように感じます。10年、20年、もっというと50年先までを見据えるようになったことが、一番の大きな変化かもしれないですね。

――視点のスパンが長くなったということですね。
芸能界と農業の新陳代謝のスピードの違いが影響しているように思います。
たとえばダンス&ボーカルグループに所属していた時は、2〜3か月に1回新曲をリリースしていました。レコーディングして、プロモーションのためのイベント参加やテレビ出演……というサイクルを2〜3か月という短いスパンで繰り返します。そのスピードは、本当に目まぐるしいものでした。
しかし農業は、年単位で物事を考えなければいけません。ブドウ作りを例にとってみても、収穫の時期は年に1度。「新しいことを試したい!」と思っても、成果が出るかどうかは来年までお預けです。しかも翌年、新しいことを試そうとしても気候などの条件が変わってしまうことも。農業は数年単位、ややもすると数十年単位で物事をとらえる必要があるのです。どちらが良い、悪いと言うことではなく、2つの“スピードの違い”が私に新しい視点をもたらしてくれたと感じています。

――代謝の早い社会に身を置いているがゆえに早いリズムに体が慣れてしまって、「ロングスパンで物事を考えるのが苦手」という人も多いように感じます。“リズム感”が変わって、武藤さんは自身の気持ちはいかがですか?
私は「ロングスパンで物事を考えるのも楽しいな」と感じています!最近、2050年を見据えて小諸市を梅の一大産地にするプロジェクトを始動したのですが、こんなに壮大な夢を持てたのも、ロングスパンで物事を考えられるようになったからこそだと思います。だって、これまでなら25年後の未来を考えることはありませんでしたから(笑)。
社会のリズムは変わるから、はたらき方に多様な選択肢を提示したい
――武藤さんはどんな時に、はたらく楽しさを感じますか?
「人との化学反応が起きること」に喜びを感じますね。小諸市を梅の産地にするプロジェクトで2人の女性と協力をしているのですが、彼女たちの発想がとてもユニークなことには毎度驚かされています。たとえば林業に従事している女性は「もし研修に来てくれる人がいれば、重機の使い方を教えられるカリキュラムを用意したい」と言ってくれましたし、特別支援学級で教員をしてきた経験を持つ女性は「いずれこのプロジェクトで、農福連携をしたい」という夢を語ってくれました。

――「梅」からそこまで話が広がるとは!面白いですね。
重機の使用カリキュラムも、農福連携も彼女たちならではの視点から生まれたアイディアで、私一人が黙々とプロジェクトを進めていたら思いもつきませんでした。人と協働することで、思ってもいなかったような場所にたどり着けることは私にとって、ある意味ご褒美のようなもの。新しい視点を授けてもらうことの喜びも、“はたらくWell-being”の一つかもしれません。
――武藤さんの今後の目標を教えてください。
私自身のキャリア選択や生き方を通して、多くの人に「はたらき方・生き方は自由に、気軽に選んでいいんだ」と思ってもらうことが目標です。
生きていると人は必ずライフステージの変化にぶつかるもの。そんな時に自分の中の正解にとらわれずに、「少しスピードを緩めてもいいのかも」「もっと柔軟にはたらき方を選んでみよう」と思えるような、一つのロールモデルになれたらと思っています。
――はたらき方に多様な選択肢を提示したいということですね。
はい。ロングスパンで物事をとらえるはたらき方も、一つの選択肢として提示できたら嬉しいです。
たとえば今、特に“新陳代謝”が早い東京も、2025年を境に人口がピークアウトしていくと言われています。人口が増えていくことが前提として作られた都市と社会なのだとしたら、ここから先の50年、100年後に東京がどんな街になり、経済はどのように変化していくか分かりません。
社会や経済の“リズム”は、きっとこれからも刻一刻と変化していきます。そんな中でも、状況に応じた心地よいはたらき方、ひいては生き方を選んでいい。そのためにも、より軽やかでしなやかにキャリアを選択できる自分であることが目標です。
