#29

いま死んでも、ちゃんと笑える

水族館プロデューサー 中村元さん

魅力的な水族館をつくるため試行錯誤しながら奔走してきた中村元(はじめ)さん。弱点を武器に変え、コツコツと実績を積み上げてきた。水族館に関わって40年。だからこそ「笑える」中村さんの働き方とは。

更新日:2019年3月8日

「何も知らない」という弱みを強みに

新卒で入社したのは「鳥羽水族館」ですね。就職先に水族館を選んだのはなぜですか?

大学ではマーケティング専攻で、海洋生物のことはまったく知らないし、特に魚が好きでもなかったのです。本当はメディア関係で働きたかったのですが、すごい才能があるわけでもなく成績も悪かったので、引っ掛かりもしない。
それで地元の水族館を選んだのですが、よく考えたら、「水族館そのものがメディア」。しかも、メディアで優秀な人は水族館に誰もいないから、ここなら戦えると思ったのです。

最初は飼育係でアシカトレーナーとして働きはじめました。鳥羽水族館には、ジュゴンやスナメリイルカなど見てほしい珍しい生き物がたくさんいるのに、なかなか人が集まらない。水族館に人を呼ぶためにはどうしたらいいか、考えついたのが「メディアに出す」ことでした。
27歳で水族館業界で初めて広報担当部署を立ち上げ、テレビが飛びつきそうな動画を撮影して局に送りました。例えば、タツノオトシゴはオスが赤ちゃんを産みます。メスがオスのおなかに卵を産み、それがふ化して小さなタツノオトシゴがぶわぁっと出てくる。水族館で働く人たちは、当たり前のように皆知っているから、珍しいなんて思っていません。でも、私自身は、魚の知識がまったくないから面白くてしょうがない。実際に、タツノオトシゴやスナメリの出産シーンの映像などがメディアで紹介されると視聴者が水族館を思い出し、それらを見るためにどっと水族館に押し寄せたのです。

魚の知識は負けるけど、マーケティングを学んでいたのは水族館で自分だけ。魚についてよく知らない一般人の感覚に近いからこそできることがある。弱点を克服するより、“弱点をいかした”ポジションについたのです。

 

どのようにして、人気の水族館にしていったのでしょうか?

館員は魚が好きで働いている人ばかりですから、「来場者も魚が好き」と思い込んでいます。だから、“魚を見せる水族館”になりがちです。私の場合、魚にそこまで興味がないからこそ「お客目線」と近かったんですよね。それが“魅力的な水族館”をつくるベースになった。これも、弱みが強みになった点です。

水族館をお客目線で見てみると、いろいろな発見がありました。1組の来場者をこっそり入口から出口まで観察していると、入口付近の水槽は丹念に見るのですが、だんだん飽きたり時間がなくなったりして、一番見てほしい水槽や最後のほうは足早に通り過ぎるだけ。
つくり手側にしたら、最後にとっておきの水槽を用意しているのに。でも来場者は、先に何があるか分からないから、チケット代の元をとらなきゃって最初だけ真剣に見るんですよね。

 

来場者の行動を観察し続けて分かったことは、泳いでいる魚よりも水槽の雰囲気を見ていることでした。行ってみたい潜ってみたいとイメージする“水中世界”を見ていたのです。それを意識して水槽をつくり込むことで、多くの人に見てもらえるようになりました。

実績がものを言う。そのために小さく、分かりやすくはじめる

広報を立ち上げたり、これまでと見せ方の違う水槽をつくったり。前例のないことに取り組むなかで大変なことはありませんでしたか?

たくさんありましたよ。やりたいことはあったけど、ずっと我慢してたんです。職場の先輩や同僚から、「ちょっと焦りすぎや」「いま反対している上の人は、待っていたら先にいなくなるんやから、それまで我慢していたほうがいい」と言われ続けていましたしね。

でも、35歳のとき、イロワケイルカの調査と捕獲のために行っていたマゼラン海峡で、船が大嵐にあって遭難。船員も腰が抜けて十字架を切っているし、私自身もひどい船酔いで何度も失神して。そのとき、「やりたいことを我慢してきたのに、上司より俺が先に死ぬやん!」と思ったのです(笑)

いつ死ぬか分からないなら、「やらなくてはいけないと思ったことは、何があっても今すぐやろう」と決心しました。自分の意見は臆さず言うようになり、やりたいことを貫くことで、仕事も楽しくなりましたね。

どのようにして軋轢を乗り越えてきたのでしょうか?

私はふたつの方法を使っていました。ひとつは実績を見せること。実績を示せば文句は言えなくなる。そのためには、コツがあります。

全国ではじめて、ボランティアでバリアフリー観光による増客を成功させたのですが、18年前に伊勢志摩で始めた当初はバリアフリーの宿泊施設を、あえて3軒に絞りました。そうすることで、その3軒に必要なお客さんが集中します。年30組のお客さんしかいなくても、各施設には平均10組のお客さんが増えるという実績が出ます。すると、「うちでもやってくれ」という話が自然と出てくる。
何かをはじめるときは、分かりやすく小さくはじめることがコツなんです。そうすれば目立つし、実績が必ずとれるようになるから。

もうひとつは、理解者を探すこと。多くの人に反対されても、一人でも理解者がいればいいんです。家族や恋人でもいい。誰も味方をしてくれないと、どんどんひねくれてしまって、本来思っていないような方向に行ってしまうんです。本来の目的を見失わずにいるためにも、理解者が必要です。

弱点は克服せずに進化させれば面白くなる

現在は、どのようなお仕事をされているのですか?

2001年、45歳の時に日本初の水族館プロデューサーとして独立しました。最初のころは鳥羽水族館の副館長時代より、収入給料がガクンと下がりましたが、やり切ったという思いがありましたから不安はありませんでしたね。

独立してからは、江の島水族館やサンシャイン水族館のリニューアルを手がけました。
仕事をするうえで大事にしていることは、弱点を克服するのではなくて、“進化させる”こと。動物に例えると分かりやすいのですが、生きていけなくなった弱い生物は、環境に合わせて進化するのです。弱みがあるからこそ生き残るための新たな道を創造するわけです。

サンシャイン水族館は、弱点だらけだったのでやりやすかったですね。珍しい屋上のある高層水族館ですが、夏は暑くて冬は寒く、雨の日は濡れる、水があまり使えない屋上があるという最大の弱点があったから、水槽を“屋根替わり”にして、「天空のあしか」やペリカンの水槽がつくれたのです。事故を防ぐ高壁の代わりに、水槽の向こうに空やビルが広がる「天空のペンギン」をつくり、一番の見どころにしました。あれは、弱点によって生まれた“進化”なんです。

 

今後はどんなことを考えていますか?

こんな自分でも、社会を変えることができるぞ、と思うような仕事がしたいですね。
自分ひとりでは変えられませんが、全国の水族館や動物園の想いに共感してくれる若い館長や飼育長が増えてきて、水族館の展示や業界が少しずつ変化しているのを感じています。

日本全国に約100館ある水族館のうち、自分で手がけたのは10館ほど。魅力的な水族館をつくるために、若手育成にもっと力を入れたいと思っています。

中村さんにとって「はたらいて、笑おう。」とは?

いま、死んでもいいと思える働き方をすることです。

やらなければいけないと思ったことはすぐにやることを心がけているので、いま死んでも、ちゃんと笑える。常にそう思いながら仕事をしています。
死にそうな経験をして、「我慢したらどうなるか」を猛烈に知っているから、“いま”が何よりも大事なんです。我慢していたら、絶対に笑えないよ。

納得した働き方をしないと、笑えないよね。

 

取材・構成:児玉 奈保美
写真:井手 康郎(GRACABI inc.)
撮影協力:サンシャイン水族館

 

水族館プロデューサー 中村元さん

1956年生まれ。鳥羽水族館副館長から独立して水族館プロデューサー。新時代の展示開発を追求した新江の島水族館、サンシャイン水族館、北の大地の水族館、広島マリホ水族館などで奇跡的な集客増を成功させた。現在も国内外でプロデュースを手がけている。水族館文化発展のためにトークライブを定期開催し、水族館に関わる著書は20冊を超える。

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