キャリアオーナーシップ部⾨
父の自死がきっかけとなり、33歳で医学部を志す。3人の子育てをしながら、40歳で医学生に。留年や国家試験浪人を経て、53歳で医師免許を取得。現在は、自身が幼少期から抜毛症を患った経験から頭髪治療に携わる。喜びも哀しみも患者さんと共に。診療を通じて、誰かの役に立つことで日々生きる意味やエネルギーを感じている。女性でも子どもがいる主婦でも、夢を諦めず働ける社会の実現を手助けしたいと考えている。
実父の死をきっかけに医師を志した時、すでに33歳。7浪の末に医学部に合格し、その間には結婚と出産を経験。医学生と子育てを両立しながら、53歳でついに医師免許を取得した前島貴子さんの、夢をあきらめずに前進し続けられた原動力と、この先に見据えている目標をお聞きしました。
— 医師を志したのは、なんと33歳の時。きっかけは何だったのでしょうか?
幼いころから、困っている人を見つけると、すべてを投げ売ってでも助けてあげたくなる性分なんです。命を救うことができる医療の世界は、その意味でうってつけでした。では、なぜ30代になってから挑戦しようと考えたかというと、これには父の死が影響しています。私が33歳の時のことで、自殺でした。
当時、すでに母とは離婚していましたが、近所に父が経営する中華料理店があったので、たまに手伝っていたんです。やはり寂しかったのか、お酒に溺れることも多かった父ですが、常に私を応援してくれる優しい人でした。そんな父を救ってやれなかった後悔から、同じように悩んでいる人を1人でも多く助けたいと考えたことが、医師を目指すきっかけになりました。
— 困っている人を助ける手段にもさまざまありますが、とくに医師という職業にこだわったのはなぜでしょうか。
命をつなぐこと、助けることに、ほかの何にも代え難い価値を感じていたからです。これには原体験があって、4歳の時にお祭りの屋台ですくった金魚を、うっかり道端に落としてしまったことがあったんです。しかし、その時の私はどうしていいかわからず、ただおろおろしながら、苦しそうに跳ね回る金魚が動かなくなるまで見ていることしかできませんでした。その時に感じた、1つの命を救えなかった絶望を、いまも鮮明に覚えています。
— 医師を目指すということは、医学部を目指すということですよね。
そうです。ところが、私は子どものころからずっと落ちこぼれでした。勉強も運動も苦手で、何か特技があるわけでもなく、学校の先生からも「お前は駄目なヤツだ」と何度も言われました。そんな自分なので、本当に医師になれるのか半信半疑だったのは事実です。それでも、とにかくできることから少しずつやっていこうと、小学生の分数をおさらいすることから勉強をスタートしたんです。
— 医学部に合格するまで、じつに7年。長い道のりでした。
苦しかったけど、中学時代には理解できなかった問題が少しずつ解けるようになっていくのは、とても楽しい経験でした。なにしろ、子どものころに成功体験らしきものがまったくなかったですからね。数学でも何でも、自分の成長を感じられるのは嬉しいことでした。
それに、医学部というのは確かにエベレスト級に高いハードルですが、一歩ずつでも上がっていけば、間違いなく頂上に近づけると信じていたことも原動力になりました。もっとも、7年もかかると最初からわかっていたら、とてもチャレンジできなかったと思いますけど。
— おまけに前島さんは、7浪の間に結婚、出産を経験されています。
長女を授かったのが36歳の時でした。つわりの時期はとても勉強どころではなくて大変でしたし、産まれたら産まれたで授乳やお世話にてんてこまいで勉強どころではないという、八方ふさがりの状態でした。でも、どうしても母親になることをあきらめたくなかったので、頑張るしかなかったんですよ。幸い、育児に関しては母のサポートも得られたので、どうにか勉強と両立することができました。
— そして医学部を9年かけて卒業し、ついに昨年、53歳で国家試験に合格。その瞬間はどんなお気持ちでしたか?
医学部受験は8度目、国家試験は3度目でやっと合格できたので、嬉しさよりも達成感が勝りましたね。こんな私にも本当にやり遂げられたんだな、と。
— これほど長く、地道に努力を続けることができた理由を、どう分析していますか?
途中からは、いまさら後に引けなくなっていたというのが正直なところですが、「自分にだって頑張ればできるはず」と信じることはとても重要だと思います。そして、医師になる目標を叶えてみてあらためて感じるのは、人が持って生まれた才能というのは、ごくわずかな要素に過ぎないということです。学力でも容姿でも、それぞれ個人差があるのは事実ですが、その差はじつは私たちが思い込んでいるほど大きなものではなく、自分の努力次第で埋められるんですよ。
私くらいの世代はとくに、夢をあきらめてしまった人が多いと思いますが、そういう人にこそ私の生き方を見て、共感してもらえたら嬉しいですね。お金がないとか時間がないというのは、言い訳に過ぎません。やり遂げたいという気持ちが大事なんです。
— 晴れて医師となってからのキャリアは順調ですか。
いえ、研修期間がまたすごく大変で……。最初は産婦人科を目指して医局に入ったのですが、上司にずっと叱られっぱなしでした。辛辣な言葉に耐えられず、陰で泣くこともしょっちゅうでした。
やがて、毎日叱られているうちに、「私にだっていいところはあるんだぞ!」と憤りを覚え、もっと自分が認めてもらえる場がほかにあるのではないかと思うようになりました。体力的にきつかったこともあり、結局産婦人科医になるのは半年ほどであきらめてしまったんです。
— 結果的に現在は、薄毛治療のクリニックに勤務されています。この分野を選んだのはなぜですか?
理由のひとつは、私自身が幼少期に抜毛症(毛を抜きたい衝動を抑えられない病気)に悩まされていたことです。実際に髪の毛が明らかに減ってしまい、苦しんだ時期もありました。頭髪の悩みというのは男性のものと思われがちですが、じつはそうとも限らないのです。
そしてもちろん、AGA(男性型脱毛症)に悩んでいる男性の手助けをしたい気持ちもあります。つまり私にとっては、悩んでいる人にアプローチできれば、診療科は何でも構わないんですよ。
— いま、日々の仕事のなかで、どんな場面で喜びを感じていますか。
悩みが解決して笑顔を取り戻した人を間近で見ていると、それだけで私自身も大きなエネルギーをもらえます。担当した患者さんから「先生、ありがとう」といってもらえるのは、何よりの喜びですよ。
一方で、医師になったからといって、必ずしもすべての命を救えるわけではないことも理解しています。それでも、どういう形で最期を迎えるかというのは、人間にとってとても大切なことですから、引き続き自分にできることを追求していきたいですね。
— 医師としてはたらく現在の自分について、どう感じていますか?
私はいま、「○○大学の医局員」であるとか、「○○病院の産婦人科医」であるとかではなく、医師の肩書だけが残った状態です。すると何が残ったかというと、もともと私の根底にあった「人を救いたい」という純粋な欲求でした。
もし私が20代だったら、その欲求を叶えるために研究に明け暮れ、論文を書くという選択肢もあったのかもしれません。しかし、この年齢だからこそ困っている人の気持ちに寄り添い、助けることができるのも事実だと思います。その意味でも薄毛治療にたずさわるのは、悪くない選択だったと感じています。
— 次の目標はどこに設定していますか?
世の中の人々を勇気づけること、ですね。どんな立場の人であっても、誰でも必ずその人ならではの価値を備えているはずで、一人でも多くの人がそうした自分の価値を自覚し、役割を意識しながら生き生きとはたらける社会をつくる手助けをしていきたいです。
とくに女性の場合は、まだまだ男性と対等に仕事をするには多くのハードルがあると思います。結婚、出産もその1つで、仕事か家庭、いずれかの選択を求められる場面はいまだに少なくありません。でも、女性であっても母であっても、人は自分の可能性を最大限に伸ばしていけると私は信じています。
— 前島さんにとっての「はたらいて、笑おう。」とは?
人がなぜはたらくのかといえば、経済的な基盤を作ったり、自分のやり甲斐を満たしたり、あるいは社会に貢献したり、さまざまな目標があるからだと思います。その目標に向けて、毎日を精一杯やりきることができれば、1日の終わりにはほっと安らぎ、自然に笑顔がこぼれるはず。少なくとも私は、そういう日々を過ごしたいと常に考えています。
選考委員・藤本あゆみ様より
絶対にやり遂げる、実現させると言う前島さんの人生への向き合い方は、挑戦するすべての人にとっての大きな刺激になると思います。また、家族との二人三脚で夢を、そして思いを実現していく姿は、多くの人を勇気づけるでしょう。”7浪20年かけて50代で医師に”と言うのは簡単にできることではないですが、人生100年時代においてどの年齢でも挑戦するのに遅くないと思わせてくれる強力なロールモデルだと思います。
以前、派遣社員として就業していた御社グループから素晴らしい賞を頂き、身に余る光栄に存じます。私は父の死がきっかけに30代前半で3人の子育てをしながら医学部受験を始めました。クラスでも最下位で劣等生だった私が、現在では医師として病める人に寄り添う仕事をさせて頂けることは感謝してもしきれません。どんなに忙しくてもはたらくことで誰かの役に立つ喜び、また生かされている喜びは何物にも変えられません。このような賞を頂き心から感謝申し上げます。